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2024.05.08

近江真綿の現場見学【山脇源平商店へ!】

近江真綿の現場見学【山脇源平商店へ!】

茹でた繭を厚さが均等になるように広げる「繭むき」は、指先の感覚が頼り。

  

かつて日本の各地で盛んに行われていたという真綿づくりは、時代の波に押され、いまや風前のともしびに。
そんななか、江戸中期に始まった「近江真綿」の技と伝統を滋賀hひたむきに守り続ける、滋賀県米原市の山脇源平商店を訪ねました。

  

 

綿づくりの現場を拝見した後、山脇さんのお話を伺いました。
聞けば聞くほど、日本の真綿づくりは風前の灯⁉︎

真綿づくりの歴史と産地のこと、そして、未来に向けた取り組みのこともお聞しました。

⸺ 真綿は木綿よりも長い歴史があるそうですね。使う道具や製法は昔から変わっていませんか。

国産の真綿づくりは、昔から機械は使わずみんな手作業やからね。江戸時代の浮世絵にも真綿づくりの様子が出てくるけど、やり方は今とほぼ一緒。近江の真綿屋も今ではほとんどなくなってしまいました。うちはできるだけ昔のままを守りたいと思って道具にもこだわってやっています。

繭むきに使う木の桶も、県内では手に入らず静岡の方から取り寄せました。剥いたを引っ掛ける枠は「下馬(げば)」というんですが、あれも特殊な道具やもんで、わざわざ指物屋さんに頼んで作ってもらうんですわ。

⸺ 日本には古代から中国の真綿づくりが伝わっていたということですが、近江での歴史はどれくらい続いてますか。

1700年代の中頃からでしょうか。滋賀県でも湖北地方は古くから絹の産地で、米原の岩脇や多和田地区で真綿づくりが盛んに行われてきました。うちの創業が1730年。当時の証文や文書を見ると「ある時、岩脇の山村さんという家の奥さんが、たまたま真綿むきの内職をしたら良い稼ぎになった。それを機に村の農家の人たちがこぞっ て真綿を始めた」といった記述があります。それ以来、何軒もの真綿屋さんができて、近江が真綿の一大産地になったということです。 年にはこの地域に組合もできて、当時の組合長さんが他の産地と差別化するため、彦根藩主に真綿を献上して、井伊家のお墨付きをもらったという記録もあります。

⸺ その頃、近江真綿はすでにブランドとしての価値があったということですか。

そうそう。組合がちゃんと仕事しとったということです。商売をする人は昔も今も考えることは同じやね(笑)

⸺ 明治に入ると日本各地で養蚕が盛んになっていきます。

明治に入ると殖産興業で、日本中に真綿や生糸の会社ができました。もっとも盛んだった大正時代に、近江は真綿産業の中心でした。最盛期には全国の生産量の4分1のを作っておったほどです。ところが世界恐慌でみんなダメになってしまった。 昭和30年代ごろに紬のブームがあって少し上向くものの、中国から安価な絹が入ってきて国内の蚕糸業界は総崩れ。真綿も同様です。

1750年ごろの古文書では、このあたりの組合員は69人。それが100年後の明治初期には真綿の生産は80戸まで増え、今ではうちぐらいしか残っていないんです。

⸺ すごい早さで減ってしまったんですね。それでも山脇さんが続けてこられたのはなぜですか。

うちは長年取引をしてくださるところがあったことと、昭和 年に日本真綿協会ができて、私の母の叔父(長野重右衛門)が初代会長に。そうやって昔から頑張ってきましたし、なんとかして残さんといかんという思いがありました。

⸺ 山脇さんご自身も、真綿のあらゆることを知る、生き字引と言えるほどの方になっています。

真綿をつくるところが他にないとなると、お得意さんや大学の研究所の人、取材するメディアなど、いろんな方がみんなうちに来はるんですわ。そこで自分が説明せないかんから。いい加減な知識ではダメやと思って、いろいろ調べたり勉強しとるうちに詳しくなりました。知識は増えたけど、気づいた時には全国でも真綿屋さんがほとんどなくなってしまっていた。このままでは貴重な資料を残す人も歴史を記録する人もおらんようになってしまう。そこに危機感を感じたわけです。

⸺ とくに真綿にまつわる資料や記録は残っているものが少ないと聞きました。

そもそも養蚕の本筋は生糸で、真綿というのは生糸を取った後の屑 繭 (くずまゆ)を集めて作る副産物のようなものですから。それもあって資料や文献が極端に少ないんやと思います。私も古本屋さんなどを訪ねては、真綿に関する資料をいろいろ集めました。このまま真綿屋さんがなくなれば歴史的な記録も何もかもみんな消えてなくなってしまう。私一人だから、自分がやらんと特に近江の角真綿は日本から消えてしまいます。

⸺ そこまでして守りたい国産の真綿の良さとは何でしょう。

自然の素材ならではの良さでしょうね。

冬はこたつがいらんぐらい温いし、夏場も半分の重さの肌ぶとん一枚で快適です。品質や使い心地という点では中国の真綿も大きな差はありませんが、日本のものと違って機械化されているので加工の段階で違いが出ます。例えば色。繭の色は品種の違いで変わりますが、中国から来るものは薬品を 使って漂白されるため、みんな真っ白なんです。昔ながらの手作業で、自然のままの色で仕上げる。そこがメイド・イン・ジャパンのこだわりやね。

⸺ 山脇源平商店の今後はどうでしょう。

日本の養蚕自体が非常に厳しい状況ですし、もしうちの他に真綿屋さんが何軒もあったなら、もうとっくにやめとるだろうね(笑)。 息 子にも今の仕事を辞めてまで継いでくれとは言えません。本人はどうするつもりかまだわからんが、商売なんて無理やらせても上手くいくもんじゃないしな。

本人がその気じゃないと。伝統産業いうもんは常に新しいことをやり続けんとあかんと思います。

⸺ 守り続けていくものと、時代に合わせて変化していくべきものがある。

そういうことやね。たとえ息子が跡を継いでくれたとしても、古い価値観を押し付けてはいかんしな。「親父、何してんのや。こんなことやっとったらあかんがな」ぐらいの気持ちで新しいことに挑戦してくれるぐらいでないと。あとは最近、テレビでもよく紹介してもらうんですが、それを見て「してみたい」って来てくれはる人もあるんです。一度 体 験されるとみんな「面白い!」言うてくれます。

⸺ 大変貴重になってしまった真綿づくり。

未来に残すために養蚕にも取り組みはじめたそうですね。

生糸や絹織物の需要もどんどん減って、これでは養蚕そのものがどんどん廃れてしまいよるからね。それでは真綿も続けられへんと思 います。もういっぺ ん 近 江で国産真綿を復活させるなら、養蚕から自分とこでやってみようと。昆虫学の先生の指導を受けながら、作業場の隣りの小屋で2016年から養蚕に挑戦しています。

⸺ 挑戦が続きますね。

養蚕についてはまだまだ若手のつもりです(笑)。真綿の歴史、文化、産業、とにかく今はいろんな方面から真綿のことを知りたい、聞きたいという人たちがみんなここへ来ます。私もちゃんと情報提供できるように頑張らんと。残していくためにはできるだけ 多くの人に関心を 持ってもらわないかんからね。

談・小野元幹(小野ふとん店社長)

真綿づくりは今もすべての工程が手作業で行われているんですね。何百年も前からほとんど変わっていないというのも驚きでした。工房ではベテランの職人さんと経験の浅い方とがともに仲良く作業にいそしんでいて、昔ながらの家内工業的な雰囲気を残しています。山脇さんは「伝統工芸ではあるけれど誰もがいつでも挑戦できる仕事」とおっしゃっていて、僕はそこに未来への希望や可能性を感じます。日本が誇る真綿の伝統を将来へ継承すべく孤軍奮闘す山脇さんの熱い思いにも感動しました。そんな作り手の思いをしっかりとお客様に伝えていくことが、販売を担う僕たちの使命なのだと思います。